narcの解釈

劇場版レヴュースタァライト エヴァ などの考察が主です 風呂敷をなるべく広げずに考察することを目指します

14000字の劇場版レヴュースタァライト考察・感想(キリン、ラストシーン等)

劇ス、良すぎ

8/29現在、「12話で運命の舞台は演じられたが、最後のレヴューもまた運命の舞台なのか?」ということに関する補足のnoteを公開しています。こちらも是非!

100パー感想となると「良い」しか言えなくて文章が書けないので、今回はストーリーに沿って考察に寄せた形で思ったことなどを書こうと思います🙂(もう公開終了間近だけど)
こういう形で文章を書くのは初めてですし、円盤の発売や配信などもまだなのでミスや読みにくい点、論理の飛躍などがあるかもしれませんがご容赦ください。

1.ワイルドスクリーンバロックと大場なな

・映画での「私たち、もう死んでるよ」というセリフ
・ロンド・ロンド・ロンドの最後で「大場ななが舞台少女の死を知り、(状況から察するにおそらくオーディションの権利を使って)新たな舞台『ワイルドスクリーンバロック』を行う」という場面

からわかる通り、

大場ななの目的は「他の九九組メンバーに自身が舞台少女として死んだことに気づかせて、そこから脱却するために奮起させること」でした。

「なんだか強いお酒を飲んだみたい」と純那のマジレスは監督が「違和感を感じるように組み込んだ」と語っているので、ここではななと純那の間にある「舞台の上にいるか、いないか」=「セリフを発せるか、発せないか」という隔たりを表現しているのでしょう。(他にも真矢クロvsななでの奇妙な間も意図的に仕込まれていると思います)
純那は舞台の上にいるという自覚がない=舞台少女として死んでいるので、セリフをセリフとして解釈した上で自分のセリフを返すことが出来ませんでした。
ちなみにこのセリフはシェイクスピアの劇から取っているらしいので、純那を試すという意味では適しているのでしょう。

(自分はロロロの考察があまり出来ていないので、なな視点の時系列に関しては「なながループをやめてから1度舞台少女の死を見届け、再び世界をリセットしてワイルドスクリーンバロックを起こした」以上にうまく順序立てて説明することができません。こちらの方の考えが自分と同じ解釈から展開していて納得できる内容だったので読んでみてください。)

では、このタイミングで「開幕」したワイルドスクリーンバロックとは何なのか?を語るために、それを引き起こしたキリンとは何者なのか?ということを説明します。

2.キリンとは何者なのか?

劇場版スタァライトにおいて、キリンは以下の要素を持っていました。

① 野菜のキリン
② 燃えるキリン
③ 舞台に火を灯す役割がある(本人の発言)
④ 舞台少女の糧となる(本人の発言)

① 野菜のキリン
他の方も考察されている通り、野菜で構成されたキリンはアルチンボルドの絵画の作風を連想させるものです。アルチンボルドルネサンスバロックの間にある「マニエリスム」という時代を象徴する画家で、この時代の芸術はよく「ルネサンス期の技法・作風を繰り返しているだけ」と揶揄されました


その繰り返しを断ち切り、新しくバロック芸術が生まれた、というのがよくあった定説です。(余談ですが、第二次大戦後ぐらいからはマニエリスムの頃の芸術を再評価するような動きがあります。)

ちなみに「マニエリスム」は英語だと「mannerism」と綴り、これは「マンネリ」の語源となりました。

終盤でひかりの「何なのよ、ワイルドスクリーンバロックって」という発言に対してキリンは「観客が望む次の物語」というメタな発言に加えて「新しい舞台を用意して、そこで予想を超えた演技をする舞台少女が見たい(うろ覚え)」と返しているので、

「キリンの予想通りの展開」と「レヴューでの舞台少女の予想外の演技」がそれぞれ芸術史における「マニエリスム」と「バロック」に対応していると考えられます。

加えて、「ワイルドスクリーンバロック」には「マンネリ=繰り返し=ループ」からの脱却という意味合いも存在する可能性があります。ロロロの最後のシーンや、劇場版最初のレヴューである「ワイルドスクリーンバロック 開幕」、「狩りのレヴュー」の最初のシーンを見るに、ななは「舞台少女の死」を理由に少なくとももう一度ループを引き起こしており、そのループ=マンネリを断ち切るのが「ワイルドスクリーンバロック」である、というストーリー上の意味も重ねてあると考えられます。

また、舞台少女たち自身もオーディションの結果に固執したり(香子だけかもしれないが)、人生の次のステージである新国立歌劇団に対してファンのようなスタンスをとっていたりしていました。加えてランドリーでの会話からも読み取れるのですが、九九組は「聖翔学園99期生」というもの、すなわち「自身の3年間の楽しかった過去」に固執しています。(輝かしいルネサンスを繰り返そうとするマニエリスムに対応するとも考えられるでしょう。)
これはマンネリであり、ななに言わせるなら「舞台少女としての死」であるので、「ワイルドスクリーンバロック」を行ってそこから脱却させる必要があったのでしょう。元々なながマンネリに囚われて第99回スタァライトを繰り返していた身であって、そこから救ってくれた純那自身がマンネリに囚われてしまったことへの怒りという動機もななにとってはかなり大きいと考えられます。(純那の「今は、よ!」発言にブチ切れて早めにレヴューを始めてしまったことが「舞」の到着の遅れから推測されますし)

②燃えるキリン
燃えるキリンはダリの絵画、「燃えるキリン」を連想させます。ダリ自身はこのキリンを"the masculine cosmic apocalyptic monster(男性的で、終末論(アポカリプス)的な宇宙の怪物)"と表現しており、スペイン内戦からの亡命中に祖国スペインで起こる戦争や大戦の再来への予感を描いたと考えられます。
劇場版スタァライトにおいて、キリンが壮大なBGMをバックに電車の上にいる6人に語りかけるシーンがありますが、あのシーンには野菜になったキリンとともに背景に宇宙のようなものが出たり消えたりしていました。加えて、febriさんというサイトで公開された監督のインタビュー(検索していただければ見つかります)において、このシーンでは「気持ち悪さを出すために低音を強調した」という趣旨の発言があるので、ダリの絵画を意識している場合はダリの言う「男性アポカリプス宇宙怪物」という要素を取り入れて表現していることが推察されます。

③舞台に火を灯す
本編ではまんま自分の体から火をつけていましたね。このシーンで舞台は「レヴュー」もしくは「映画そのもの」のいずれかであるので、「火を灯す」というのは比喩表現と捉えるなら「かれひかのレヴューを盛り上げる」か「劇場版スタァライトを盛り上げる」ということでしょう。

④舞台少女の糧となる
「糧」という単語には英語の「meal」のようなニュアンスがあり、「空腹を満たすために食べるもの」を意味しています。また、「精神を元気づけてくれるもの」という比喩的な使い方もなされます。(「心の糧」など)
キリンの壮大BGMシーンでキリンが「力の限り演じ、渇きながら獣のように次の舞台を求めよう!私はその渇きを癒す糧になります。奪い合おう!(うろ覚え)」のようなことを言って、九九組のうち6人が「私たちはもう、舞台の上」と言いながら(多分野菜キリン由来の)トマトを食べる描写があります。つまり、トマトというのは「舞台少女が力尽きるまで演じたことで生まれる渇きを癒す」ための「糧」ということですね。

以上がキリンの果たす役割についてでした。ところで、前述の監督のインタビューを読んでいただけると分かるのですが、

・「わかります」は古川監督の普段の口癖(何も分かっていないのに適当に返事などで返してしまう言葉)
・「わかります」には監督自身の自戒も込めて「全てを理解したつもりの視聴者」を揶揄する意味合いがある

とある通り、定説でよく言われる「観客」に加えて「古川監督」の要素も多く取り込まれている様です。確かに、「男性」という特徴はもちろん、「レヴューの舞台を司っている」「その気になればレヴューの形式を好きなように変えられる(ワイルドスクリーンバロックのように)」という点で監督の要素を取り込んでいるように思えます。「宇宙的な怪物」というのもスタァライトの世界を作る本人である監督と合致するように感じました。

また、監督の要素として捉えるなら「自身を燃やして舞台に火を灯す」「舞台少女の糧となる」というのも精力的に制作に取り組み、舞台少女が立ち直るストーリーのアニメを作るということを表現しているように思います。(キリンを観客だけを表すものとして捉える場合は、このセリフの内容はもうちょっと弱くなるかな?という感じもあります)

「私にも与えられた役があったのですね」という言葉は、「役」をアニメの役とする(レヴューではなくアニメそのものの作中の役ということ)場合、キリンを「アニメの登場人物」として捉えるなら矛盾が生じるように感じますが、「監督」として捉えるならばアニメの登場人物ではなく、元来作中では与えられた役割が存在しないのが当然でしょう。(キリンを観客として捉える場合も同様のことが言えます。その場合は「映画を盛り上げて、レヴューに人気を集める」みたいな役割になるのかもしれません)

3.かれひか以外のレヴューの主題、オマージュ元と感想

①怨みのレヴュー(ふたかお)

「ウチのお菓子箱に」←駄菓子買って貰えるからってお菓子箱扱いはないだろ

「名は○○と発します」←ヤクザや不良、博徒が使う口上で「仁義を切る」という名前がついています。このレヴューは昭和の裏社会映画風に仕上がっていたのでちょうど合いますね

寺の舞台から飛び降りる←これ、まさに心中って感じしますね。その後の馬乗りになった状態のやりとりは曽根崎心中の場面を連想させます。他に連想するものもありますが、あくまで比喩だと思います。

②競演のレヴュー(ひかまひ)

宣誓シーン←ガチでめちゃくちゃ泣いた。左に座ってたお姉さんも泣いてました

ガン!!!(メイス)←怖すぎてめちゃくちゃ泣いた。金属音エグすぎてどうやって録ってるのか気になりました

「そんなんじゃ任せられないな〜」←これは途中で聴こえる歌の歌詞なんですけど、まひるはひかりが華恋のもとに向かうことは分かってて、「華恋とのレヴューから逃げたことに気づかないようにしてる」ことにも気づいている、ということを反映した歌詞なんでしょうね

幼少期華恋が覗いてきて、それを見て力が抜けてひかりが落ちるシーン←これこのレヴューにおける「星の輝き=スタァライト」ですね。劇場版スタァライトの皆穀し以外のレヴューは劇中劇「スタァライト」を模した物になっていて、「星のついた願いの塔が現れる」「塔から降りる」ということが形は違えど行われています。劇のスタァライトを模したものであるなら願いの星を手に入れようとして(星の輝きに目が眩んで)落ちるということが考えられるので、あの華恋はあのレヴューにおける「星」だと言えます。
あの華恋は東京タワーの光ってるでかめの模型から覗いてきたので、売店でひかりと髪飾りを交換するシーンだと考えられます。あのシーンは「2人でスタァライトするための運命を共有する」というシーンである(これは映画でも語られていました)ので、幼少期華恋は「2人でスタァライトする約束」を表しています。つまりあのレヴューは「逃げることで『華恋との約束を果たせなくなってしまう』=『運命の星を掴めずに塔から落ちてしまう』」という構成になっていて、そのことに気づかせるためにまひるがやっていた訳ですね。正直ひかりの怯えた顔と泣き顔がめちゃくちゃ可愛かったです(最悪)

③狩りのレヴュー(じゅんなな)

ヴァ〜〜〜(映画イントロ)←ちょっとビビった。日活のイントロのオマージュでしょうね

君死にたまふことなかれ←与謝野晶子のいちばん有名な詩ですね。これには続きがあって、その中に

君死にたまふことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思されん

という一節があります。元は大東亜戦争に出向く弟に向けた詩なので「すめらみこと」つまり「天皇陛下」が「血を流す戦いの獣の道に行って死んで欲しいとなんて思ってらっしゃるわけないでしょ」だからこそ「死なないでくれ」という意味合いです。これをななから純那に向けた言葉だと捉えるなら、「次の舞台を求めて渇き続ける獣のような舞台少女の道の途中で死なないでくれ」、そして「せめて君に誇りある死を(自害のための刀を差し出す)」っていうことになるでしょうか。大場ななの二つ名に「カイリュー」「足癖最高女」に加えて「極端な与謝野晶子」が増えてしまいました。
(与謝野晶子 バナナで検索してはいけない)

がぁぅ!←かわいい。首の角度からしてLeo the Lionって言う昔のアメリカ映画のイントロによく出てくるやつのオマージュっぽいですね(ちなみにあれ担当してたライオン8頭居たらしいです。和風総本家の豆助的な?)

99代生徒会長←そうなんだ。まあ他に適任の人いませんね(騒ぎを起こさなそうな人は他に双葉か華恋しかいませんが、双葉は成績悪いっぽいし華恋は生徒会の業務でも「わかんないよ…」って言いそう)

ポジションゼロを踏み越えて台を切り、飛びかかる←ここ台の断面がT字になってて、ポジションゼロを表してるように見えますね。「あなたの舞台なんか知らない!全部切り捨てる!(うろ覚え)」みたいな事を言いながら入った演出なので、大場ななの用意した舞台(特に目標=踏み越えたポジションゼロ)ではなく、自分で進む道や目標を切り開く!(「他人の言葉じゃ…駄目!」の時の口上の内容)という意志の現れでしょうね。あとこの台の上から降りるって言うのはこのレヴューでの「塔から降りること」なんでしょう。

最後のT字路の2方向に進むシーン←これ、「暗い道」「先に光」「振り返ろうとする」という特徴からギリシャ神話の「オルペウスとエウリュディケー」の話をオマージュしたものだと考えています。その内容はこんな感じ

オルペウスとエウリュディケーという神の新婚夫婦がいたが、エウリュディケーが蛇に噛まれて死んでしまう。
オルペウスは冥界(あの世)の王ハーデースになんとかエウリュディケーを生き返らせてもらうために竪琴を演奏して頼み込み、ハーデースの妻ペルセポネーがそれに感銘を受けたことで生き返らせてもらう。
ただし、冥界から現世に出るまでの暗い通路をオルペウスが先行して進むが、「両方が通路を出るまで決してエウリュディケーの方を振り返ってはならない」という条件があった。
その道を出た直後、オルペウスは妻のことがどうしても心配になって振り返ってしまうが、もう少しのところでまだ通路の中にいたため、エウリュディケーは目の前で塵となって消えてしまう。

蛇うんぬんはあんまり関係なさそうなのでともかく、後半の内容にレヴュー後のシーンが対応すると思うんですよね。ななが泣いた後にじゅんなが振り返ろうとして振り返らないシーンがありますが(逆もあったかな?)、これには、オルペウスのように自分が心配だから振り返るという「自己中心的な愛」からの脱却、そして「相手を一人の人間として尊重して、その進む道を互いに心の中で応援する」というメッセージが込められていると感じました。
あと、「愚かしく主役を目指して頑張る姿が美しかったよ…美しかった」の時に撒き散らされて、座っている二人を映した真ん中に刀を突き立てられて傷がついた写真があったと思うんですが、2人が歩き出したあとのT字路の交差点に白黒(セピア色かも)になって残っていて(他の写真も白黒で残っていたが)、その切り傷が埋まっていく演出がありましたね。「写真が白黒になる」というのは「写真が古くなる」=「思い出になる」という事だと考えられ、「ななが純那の記憶を自身が人生で進むための目標ではなく、自分を元気づけてくれる思い出としてしまっておく」ということが表現されていると思います。傷の修復はそのまま二人の関係性が戻ったことを表してるんでしょう。

④魂のレヴュー(真矢クロ)

こんなイチャイチャした剣戟ある?

楽屋でどうぶつしょうぎをやる時に、真矢が相手のひよこが可哀想で攻められずにボロ負けするシーン←真矢の生来の闘争心の薄さが読み取れます。
ここから推察出来るんですが、超舞台中心人間の真矢がクロディーヌをあそこまで必要としているのって「元々弱い闘争心を掻き立てさせてくれる存在」だからなんじゃないでしょうか?
「あなたでなければ暴かれることは無かった!(赤面)」も「自分はからっぽの器ではなく、欲望のある人間であると気づかされた」という事なので、自身のバイオレンスを自覚させ、掻き立てさせてくれる存在。それがクロディーヌなんだと思います。良すぎ?

レヴューの序盤の展開←これ「ファウスト」ですね。

場面ごとに出てくるタイトル←これ左と右でそれぞれ真矢とクロに対応したタイトルになってたんですが、最後のロンドン大火のセットになる時に「私たちはㅤともに、」っていうタイトルが出るんですね。つまり両方が互いに相手を求めていると。最高?

あと口上は相手のリリックをサンプリングしたディスになってましたね。

3.かれひかレヴュー、そして「運命の舞台」とは?

かれひかレヴューを語る前に、この映画で細かく表現された「華恋・ひかりの幼少期」について解釈をしていきます。(わりとうろ覚えなので前後関係めちゃくちゃだったらすみません)

まず、ひかりは華恋の隣に引っ越してきて、華恋はひかりが演劇をしていることを知ります。
帰った後に「仲良くなれそう?」と母に聞かれて「わかんない」と華恋は答えるんですが、キラミラ(携帯版のプリパラみたいなやつ)でお嬢様の衣装をやっている辺り多分めちゃくちゃ興味はありますね。(あのひかりっていう子がやるお嬢様役ってどんな感じなんだろう…ということなんでしょうね)

その後、あまり人と関わらないタイプだった華恋にひかりが関わって闊達な子供になっていく描写があり、ひかりが劇団アネモネの劇「スタァライト」のチケット(招待状?)を渡す場面になります。(知ってるんだけどなー!のひかりがかわいかった)

次の場面では劇の当日の朝、華恋をひかりが迎えにくるんですけど、ここでは玄関の外が赤くなっている表現がされていますね。赤くするということは「ひかりが玄関の前に迎えに来る」以上の意味合いを持たせていることが考えられます。
玄関を開けることに「華恋がひかりと舞台を見に行く」以上の意味があるとするならば、「それによって舞台の道を歩み始める」ということを象徴しているのでしょう。ここで招待されたことで華恋の人生が大きく変わった、というのは映画を見た方にとってはほぼ当たり前のことですね。

このシーンから開演のブザーが鳴り出し、次にかれひかが演じる舞台(演目は「スタァライト」で、華恋が横たわるひかりを抱えています)を幼少期かれひかが観客として見るというシーンになります。同一人物が2人ずついる以上はどちらかを比喩として解釈しなければなりません。ここまで幼少期の描写が続いてきた以上は幼少期の2人が実際の登場人物だろうし、ひかりが舞台を見ながら「本当に綺麗。でも…(私が演じられるわけない)」という発言をしたことを考えると舞台の上の2人は「幼少期の2人が、将来の自身を舞台の上の演劇に重ね合わせている」ということを描写したものだと思います。自信を失った発言をしたひかりを、華恋は手を繋ぎながら「一緒に行こう!運命の舞台に、2人で!」と励まします。
うろ覚えですが、この後にも髪飾りを交換するシーンが入っていたはずです。

その後、映画中では場面が飛び、例の壮大BGMでキリンが語りかける場面の後、「共演者は、あと2人」というキリンのセリフが入って再び華恋の過去の描写になります。
華恋がひかりに「ひどりじゃスタァライトでぎない〜」と言うシーンから東京タワーを中心にカメラが上に移動し、その先に2つの星が見えます(この星は劇中劇のスタァライトを模したものですね)。その間に

ひかり「約束?」
華恋「ううん、う・ん・め・い!」
ひかり「運命…?」
華恋「うん!だから、運命の舞台のチケットを交換しよ!」

という会話があり、これと同時にカメラが上がりきり、星が画面中央まで来るときに売店の髪飾りを渡すシーンがフェードインしてきます。(運命!のタイミングでフェードインが始まり、華恋が返すタイミングでは次のシーンになっていました)
フェードインする時「星の位置」と「ひかりと華恋の髪飾りを持った手の位置」が重なっていた上にフェードインのタイミングで効果音が入っていたので、「東京タワーの先の星」=「髪飾り」=「運命の舞台への約束」と解釈されることを意図した表現なんだと思います。

その後、ひかりが去った後の華恋が描写されます。「見ない!聞かない!調べない!」と言っていたのに、華恋は布団の中でひかりの名前を検索してしまいました。その事への罪悪感が描写されていましたね(自分でも一方的な思いかもしれないけどみたいなことを言ってはいましたが)。

以上が(覚えている限りの)華恋の過去の描写です。

ここからかれひかの関係性や、それぞれのモチーフについての情報を選び出すと以下のようになります。

・ひかりは「招待状」で内向的だった華恋を舞台の世界に誘い、華恋は「髪飾り」で自信の無いひかりを励まし、運命の舞台を二人の目指す先にした
・東京タワーは星つみの塔として捉えることが出来て、その先の星は「髪飾り=運命の舞台=二人でのスタァライト」である

これを踏まえてワイルドスクリーンバロックでの華恋の描写、そして最後のレヴューについて見ていきます。


ばななたちが電車の上で皆穀しのレヴューをやっている時、またはやった後、華恋だけは車両の上にいませんでした。
例の壮大BGMキリンと「私たちはもう、舞台の上」のシーンより後に、ばななが切り離されたまま1両で走る華恋の車両に乗って「みんなは渇いて次の舞台を求めて…でも華恋ちゃんは次の舞台を見つけなければならない。自分だけの舞台を」みたいな事を言って去るシーンがあります。その後(確か真矢クロレヴューの前ぐらい)に車両は東京タワーへの線路から脱線し、そこから出た華恋は「私だけの舞台って…なに?」と言いながら東京タワーに向かって徒歩で彷徨います。
監督はインタビューで「電車」「線路」を人生の道筋の象徴だと語っていたので、ここでは自身の目標である東京タワー(=ひかりと演じる運命の舞台)は「自分だけの舞台ではない」ので目指すべき道(線路)ではないかもしれないと知り、自身の進む予定だった道から外れる=心に迷いが生じることが表現されていると考えられます。

その後、東京タワーに着いた華恋はひかりと対峙します。ひかりと会話する中で自身のレヴューに観客が存在する(これはカメラをガン見することからも映画そのものの観客に気づくメタ表現でしょう。この場面での華恋にとっての舞台は「ひかりとのレヴュー」「自身の人生」「映画そのもの」が考えられますが、映画そのもの以外には観客にあたるものがありません)ことに気づき、「舞台ってこんなに怖い場所だったの…?」と言って突然死してしまいます。
この死は皆穀しのレヴューでも表現された「舞台少女としての死」であるので、「舞台そのものに怖気付いて、役としてセリフを返せなかった」ことが死の原因でしょう。


ひかりは華恋の死に気づいて駆け寄り、必死に謝罪し、横たわる華恋を抱きかかえて「お願いよ〜華恋 目を覚まして〜」と歌いだします。ここで謝罪したのは、元々華恋が映画冒頭からキラメキを失っていたのが舞台の怖さを受け止められなかったことの原因であり、キラメキの喪失の原因は「自身が運命の舞台から突然逃げ、華恋を倒した上でロンドンに行ったこと」だと思っているから、つまり「華恋の舞台少女としての死の根本的な原因は私にある」と思っているからでしょう。

また、横たわる華恋を抱える構図は幼少期の劇「スタァライト」に重ねて見ていた舞台の上での華恋・ひかりを逆転させたようになっています。これは後述する「このレヴューそのものが目指してきた運命の舞台である」ということを暗示しています。(加えて、このレヴューがワイルドスクリーンバロックの他のレヴューと同様劇中劇「スタァライト」を踏襲したものだとも分かります)

その後「もう一度お手紙を送るね」と言って、床を開いて華恋を手紙と一緒にタワーから下に落とします。(ちなみにこれで華恋は1度「塔から降りて」います。)
幼少期のシーンからわかる通り、今回の映画において「手紙」は「運命の舞台を動機として舞台の道に進むことの象徴」であったので、「もう一度舞台に戻ってきてくれ」「舞台少女として復活してくれ」という思いを乗せたものでしょう。

タワーから落ちた華恋は途中でT字の金属質の棺(これがなぜT字なのかはよく分かりません。華恋がひかりにとっての目標=ポジションゼロという事なんですかね?)になり、電車の上に乗せられます。ちなみに棺の絵柄はキネマシトラスのロゴを表したものでしたね。

華恋を乗せた車両は嵐の中を走り(ここは単にマッドマックスがやりたかったんでしょう)、東京タワーを模したジェットコースター型の線路を走っていきます。(塔を登っているという表現なんでしょうか)

その途中、幼い華恋が小学生の華恋、中学生の華恋、そして今の華恋に次々にトマトを渡すシーンがあります。先述した通り、この映画においてトマトは「舞台少女が演じることで生まれる渇きを癒すための糧」であるので、幼い華恋の記憶が今までも元気を与えてくれたように今の華恋にも糧を与え、進ませてくれるという表現なんでしょう。

電車のジェットエンジンは、車内の手紙を燃やしながら燃焼を始めます。華恋の実家などを燃やす演出もあったので「思い出を燃料として前に進む」ということを表現しているのでしょうね。

走っている電車に向かって、東京タワーに立つひかりが「ここが舞台だ!愛城華恋!」と言います。
これは仮にレヴューという意味で言っているならそもそも当然ですし、メタな意味があるとしても自分たちの物語が「少女☆歌劇レヴュースタァライト」という観客のいる舞台であるというのはさっき華恋と話したことである上に華恋の死因なので、わざわざ復活させる途中に叫ぶようなことではありません。
よってここで言う「舞台」とは2人にとっての「運命の舞台」のことで、「このレヴューこそが私たちの目指してきた運命の舞台だぞ!愛城華恋!だから目を覚ませ!」と励ましているということですね。


8/29現在、「12話で運命の舞台は演じられたが、最後のレヴューもまた運命の舞台なのか?」ということに関する補足のnoteを公開しています。こちらも是非!

棺に入ったまま電車で移動し、東京タワーに帰ってきた華恋は無事棺から出て復活することができます。「帰ってきたよ、電車に乗って!」という発言があるのですが、ここでわざわざ「電車」と言っているのは「自身の意志で選択して戻ってこられた」という事なんだろうと感じました。(逆に脱線した時は心ここに在らずという感じで放浪していたので)

最後の決着のシーンで、華恋は「ひかりちゃんが煌めいていて、ひかりちゃんが綺麗で、ひかりちゃんがくやしくて」と言って立ち向かいます。

その後、華恋が「言わなくちゃ。最後のセリフを」と言い、ひかりと対決して胸を刺されます。この事から次にくるセリフは二人のレヴューの最後のセリフであると分かります(映画としてのセリフはまだあるので)。あとひかりの刺した時の表情が泣きそうなのを必死でこらえてる感じでよかった。

刺された時の「私、ひかりに負けたくない」という華恋のセリフと同時に塔は大量のポジション・ゼロに貫かれ、ひかりと華恋は塔から降りる(落ちる?)こととなります。同時に「ワイルドスクリーンバロックㅤ終幕」という字幕が出て、このセリフがワイルドスクリーンバロックの最後のレヴューの終わりであることが分かります。
2.の①で述べたように、ワイルドスクリーンバロックは「マンネリからの脱却」を主題として進行していました。よって「華恋が自身の対抗心に気づくことは『マンネリからの脱却』であるので、そのタイミングで『ワイルドスクリーンバロックが終わった』」と解釈することができます。

では、ここでの華恋にとっての「マンネリ」とは何かということになりますが、これは今回主題として語られてきた「ひかりとの運命の舞台への固執」だと考えられます。今まで華恋は「自分のための目標」を見つけられずにいましたが、ななに「自分だけの舞台」を見つけなければならないと言われて葛藤します。なぜなら今まで華恋は「ひかりと一緒に舞台に立つ」ために舞台少女であったからですね。

そして「ひかりに負けたくない」のシーンでは、そこへの執着を終え、「ライバルに負けたくない」という自分だけの新しい目標を得ることが出来ました。これによって、マンネリを抜け出すという「ワイルドスクリーンバロック」のレヴューが全員分成し遂げられ、終幕となったと言えます。

同時に二人の髪飾りは飛んでいき、このレヴューの終わりによって「2人で演じる最高の舞台を目指す」という動機が終わりを迎えた事が分かります。

大量の金属質のポジション・ゼロによって貫かれた東京タワーは分断されます。その断面は四つの先端を持つ劇中劇「スタァライト」の星の形であり、東京タワーそのもの、もしくは東京タワーが折れることが今回手に入れるべき「星」だったと解釈することができるでしょう。(劇中劇と重ねて解釈するならば、手に入れようとして手に入らなかったものであるべきなので「華恋がライバルのひかりに負けたくないという目標」がこのタイミングでは達成されなかったことを表しているのかなぁとか思いました)

ひかりの目標だったであろう「華恋と対決し、勝つこと」は達成されました。
華恋(ひかりも?)の目標の「運命の舞台、スタァライトに二人で立つこと」は、二人のレヴューそのものが運命の舞台であるためレヴューの終了とともに達成されました。
加えて、物語≒ワイルドスクリーンバロックの目標は「全員が過去への執着=マンネリから脱却し、自身の新しいステージへと進み始めること」だったので、これは「二人の運命の舞台の終わり」、そして「華恋が自身の新しい目標を見つけること」によって達成されました。

このことで、今までの二人の運命を表す東京タワーが折れることで終わりを迎えた上で、その先端は上にあげた全ての目標を表す「ポジション・ゼロ」に突き刺さります。

ひかりが「ポジション・ゼロ!」と高らかに叫びます。これはオーディションと同じ行為なので、自身の勝利という目標の達成の宣言ですね。この後に見せた無邪気な笑顔はここまでに表現された幼少期を思わせるもので、「演じる自信がなく思い悩んだ運命の舞台を無事に終えることが出来た」そして「その重荷から解放された」嬉しさの表れかもしれません。

華恋が「演じ切っちゃった。レヴュースタァライトを」と言います。ここの華恋はカメラ目線に見えたので、「ひかりとの運命の舞台を演じきった」とともに「映画の物語が終わった」というメタ的な意味合いも含んでいるのでしょう(さっき気づいてから観客の方は見えていると考えられるので)

ひかりは「じゃあ、次の舞台を見つければいいじゃない」といい、トマトを手渡します。これは実際に「次に演じる舞台」という意味でもあるし、「次の活躍の場を探す」という意味でもあると思います。(エンドロール後に華恋が劇団か何かのオーディションを受けているので)

トマト(=演じきって渇いた舞台少女が立ち上がるための糧)を受け取った華恋はどこか元気を取り戻し満足した様子で笑みを浮かべ、暗転してからエンディングとなります。

如何だったでしょう?それぞれの描写に、「運命の舞台」「自身の歩んできた道」「ワイルドスクリーンバロック」「メタ表現」の少なくとも1つ、多い場合は全てが含まれているため、多重に心動かされる映画だったと思います。特に東京タワーが折れ、ポジション・ゼロに突き刺さるシーンは見れば見るほど魅力を感じます。

4.まとめ

最後に自分の考察したこと・推測したことをまとめます。

・「ワイルドスクリーンバロック」とは、「マンネリから脱却し、新しい道へ進む」ための(一連の)レヴュー
・ここで言う「マンネリ」は、「ななのループ・リセット」というストーリーにおけるものと、「九九組としての3年間への固執」という映画のテーマにおけるもの、「オーディションの結果への固執」「香子から自分のエゴを隠し、逃げ続けること」「運命の舞台から逃げ続けること」「届かないものから逃げ、言い訳をし続けること」「過去の星見純那への固執」「自身の完全性への固執」「いつかはライバルを超えるという思い」「運命の舞台への固執」などの感情におけるものを同時に表している
・「トマト」は「次の舞台を求め、貪欲に演技し続ける舞台少女の渇きを癒すための糧」
・「キリン」は「観客」と「監督」の要素を含んでおり、こちら側の世界の人間のことを表している
・「東京タワー」=「かれひかの幼少期からの運命」
・「髪飾り」=「招待状」=「運命の舞台に向かう動機」
・「(かれひかの文脈における)星」=「運命の舞台」=「ワイルドスクリーンバロックの最後のレヴュー」

全体として「過去にとらわれるのではなく、元気づけてくれる思い出としてしまっておいた上で次のステージを目指す」というとても前向きなメッセージを感じました。本当に素晴らしい映画だったと思います。ゲンドウくんは九九組を少しでも見習ったらどうなんですかね?

もし今回のnoteが良いと思ったらTwitterなどで拡散してくださったら嬉しいです。反論やご指摘、追加情報などがあれば是非ともコメント欄やTwitterにお願いします。本当によければなんですが、Twitter(@ciplaf)のフォローもくださると喜びます(フォロバはよっぽど問題のある人じゃなければ全員してます)

余談

1.宝石
今回キラメキの象徴として「金バッジ」だけでなく「宝石」が沢山使われていましたね(過去にもわりとあったかもしれないけど)
ひかりの周りに青い宝石があったのがすごく綺麗でいいと思いました

2.口上
最初のひかりの口上「運命(さだめ)は変わる。舞台も━━━━また。」とかめちゃくちゃかっこいい癖に最後の口上「今の私がいちばんわがまま!」ってなんだよ。自覚あったのかお前

3.真矢のポーズ
電車内で天堂真矢が新国立について語るシーンがあるんですけど、それが電車の壁掛け広告のジョブズっぽい人のシーンと同じで、まひるが不思議そうに広告と真矢を見比べてて面白かったです

4.「マニエリスム」のもう1つの意味
マニエリスム=マンネリ」はキリンの言う「レヴュースタァライトに惹かれてtvシリーズや舞台を繰り返し消費し続ける貪欲な観客」を表している可能性があり、「ワイルドスクリーンバロック」という主題はそこへの言及という意味合いを持たされているかもしれません。「味がする…」ってやつですね。スタリラ…?スタリラって何すか?

5.シンエヴァのオマージュ
エンドロール後のシーンの華恋って華恋役の小山さんのオーディションを模したものらしいんですけど、これって「現実に溶け込んだ」みたいな描写だからシンエヴァのオマージュっぽくないですかね?シンエヴァキネマシトラス関わってるし…